城山三郎の
軌跡

城山三郎の生涯にわたる主な出来事を
年表形式でご紹介します。
著作の歴史と共に、人生の軌跡を辿ります。

幼少期〜青年期

1927年
(0歳)

8月18日、父政之亟(25歳)、母寿々子(20歳)の第一子として愛知県名古屋市中区で生まれる。本名・杉浦英一。妹貞子、君枝、弟秀雄。
父は市の中心部栄町の近くでインテリア・内装の店、杉屋を経営。
母は短歌や琴を趣味としていた。

1934年
(7歳)

4月、名古屋市八重尋常高等小学校に入学。

1940年
(13歳)

4月、名古屋市立商業学校(CA)に入学。陸上部、滑空部などに入部。軍国主義教育の影響を強く受ける。

1941年
(14歳)

日米開戦

1944年
(17歳)

勤労奉仕に明け暮れる日々を過ごす。このころ、陸軍予科士官学校を受験するも身体条件で不合格。

1945年
(18歳)

3月、名古屋市立商業学校(CA)を卒業。父は軍隊に召集された。市内の自宅は夜間空襲で焼失。4月、愛知県立工業専門学校に入学。徴兵猶予となったが5月に返上し、海軍特別幹部候補生として志願入隊。終戦の4か月前だった。広島県大竹、郷原の部隊で訓練をうけ、8月6日、広島の原爆雲を目撃した。同月15日終戦。

1946年
(19歳)

アララギ東海支部に加わり短歌を作る一方、私塾に通って英米文学を学ぶ。春、一橋大学(当時東京産業大学)予科に合格するも軍学徒進学制限令により入学は9月となる。この間、英語習得に専念し、進駐軍で翻訳官の職に就いていた。9月予科入学、一橋寮に入る。

写真提供:文化のみち二葉館

成人〜杉浦英一名義執筆期

1948年
(21歳)

1月、一橋寮が全焼したため、井の頭公園近くの禅道場で暮らす。

1949年
(22歳)

国立にあるYMCA一橋寮に入る。このころ洗礼を受ける。4月、予科から学部に進学。山田雄三教授に理論経済学を学ぶ。

1950年
(23歳)

11月、名古屋公衆図書館前で後に妻となる小山容子と出会う。この頃、北川冬彦主宰の詩雑誌『時間』、山本太郎主宰の『零度』同人となる。

1951年
(24歳)

YMCA一橋寮を出、谷中に下宿。

詩「重患」「儞再来」「生」「伝説以後」(時間)

1952年
(25歳)

3月、一橋大学を卒業。卒論は「ケインズ革命の一考察」。父の大病のため、帰郷を決める。4月、愛知教育大学(当時愛知学芸大学)に商業科助手として就職。「景気論」などを担当。

詩「蛸ノ泡」(零度8号)

1954年
(27歳)

1月、小山容子と結婚。丸山薫氏を通して、永田正男、岩崎宗治、宇佐美道雄、國司通の各氏と読書会「くれとす」を始める。同名の雑誌も発行。名古屋の「近代批評」同人に加わる。

雑誌「くれとす」発行

写真提供:文化のみち二葉館

1955年
(28歳)

5月、「名古屋財界太平記」を「中部経済新間」に連載。6月、「作家の誠実さについて—田宮虎彦の場合—」を「近代批評」に発表。9月、長女・弓子が誕生するが11月に死去。この年、一橋大学経済研究所に10カ月出張。

「名古屋財界太平記」(中部経済新聞)
「作家の誠実さについて」(近代批評)

1956年
(29歳)

2月、母寿々子急逝。同月『中京財界史』刊行。11月、長男有一誕生。12月「生命の歌」を「近代批評」に発表。

「中京財界史」上下二冊 (中部経済新聞社) 「名古屋財界太平記」を改題 杉浦英一名義
「生命の歌」(近代批評)

城山三郎執筆開始〜壮年期

1957年
(30歳)

3月、実家を出て、名古屋市千種区城山近くの借家に転居。これを機に文学に本腰をいれ、筆名を城山三郎とする。5月、「輸出」で第4回文學界新人賞を受賞。同誌7月号に掲載。
12月、茅ヶ崎市に転居。愛知教育大には片道4時間かけ週二回通勤。

「輸出」「プロベラ機・着陸待て」
「神武崩れ」(いずれも文學界)

1958年
(31歳)

1月、「輸出」が直木賞候補となるも落選。10月「総会屋錦城」を「別冊文藝春秋」に発表。

「事故専務」(週刊新潮)
「挑戦」(オール読物)
「総会屋錦城」(別冊文藝春秋)

1959年
(32歳)

1月、「総会屋錦城」が第40回直木賞を受賞。5月、次女紀子誕生。「若い日本の会」に参加。

「大義の末」(五月書房)
「総会屋錦城」(文藝春秋新社)
「天皇制への対決」(婦人公論)

写真提供:文藝春秋

1960年
(33歳)

2月、アメリカとメキシコへ旅行。グランド・キャニオンの雄大さに圧倒される。5月、安保闘争に参加。夏、原水爆禁止平和行進に参加。 

「着陸復航せよ」(新潮社)
「黄金峡」(中央公論社)
「乗取り」(光文社)
「無頼空路」(講談社)

1961年
(34歳)

6月、「辛酸」を「中央公論」に発表。第二部は掲載を拒否される。このころ茅ヶ崎市内で転居。

「社長室」(新潮社)

写真提供:文化のみち二葉館

1962年
(35歳)

1月、『辛酸』を第二部と合わせて刊行。2月、アジア・アフリカ作家会議に、日本代表団の一人として参加。12月、テレビドラマ『汽車は夜九時に着く』(NHK) が芸術祭奨励賞を受賞。同月、「小説日本銀行」が外部の圧力をうけ打ち切りとなる。

「辛酸」(中央公論社)
「小説日本銀行」(エコノミスト)
「イチかバチか」(週刊朝日) 「緊急重役会」(文藝春秋新社)
「危険な椅子」(集英社)

1963年
(36歳)

6月、愛知教育大学を退職。日本作家代表団の一員として中国を訪問、北京、延安、西安、南京などに赴く。

「小説日本銀行」(新潮社)

1964年
(37歳)

2月、「硫黄島に死す」が文藝春秋読者賞を受賞。11月より「一発屋大六」を「サンデー毎日」に連載。

「企業者根性」「前途洋々」(ダイヤモンド社)
「重役養成計画」「ある倒産」(新潮社)

1965年
(38歳)

健康のため、近くの空手道場に通い始める。

「一発屋大六」(光文社)

写真提供:文化のみち二葉館

1966年
(39歳)

このころから不眠症を治すため、医者のすすめもありゴルフを始める。
10月、茅ヶ崎の「ベトナム反戦講演会」で講演。

「鼠」「学・経・年・不問」(文藝春秋)
「風雲に乗る」(光文社)
「企業小説シリーズ全七冊」(東都書房)
「当社別状なし」(徳間書店)

1967年
(40歳)

自宅新築工事の間、3月から7月にかけて、アメリカー周バス旅行。メキシコ、カナダにも寄る。空手、初段をとる。

「成算あり」(毎日新聞社)  「盲人重役」(東都書房)
「ヒッピー発見 ーアメリカ細密旅行ー」(毎日新聞社)

1968年
(41歳)

戦争小説に集中的に取り組む。11月、『硫黄島に死す』を刊行。

「一歩の距離」「望郷のとき」(文藝春秋)
「硫黄島に死す」(光文社)

1969年
(42歳)

4月、カリフォルニアヘ取材旅行。この年、小学校のPTA会長を務めた。

「価格破壊」(光文社)
「野性的人間の経済史」(番町書房)
「忘れ得ぬ翼」(文藝春秋)

1970年
(43歳)

10月から11月にかけて、江藤淳、藤枝静男と共に、日本作家代表団としてソヴィエトを訪問。

「華麗なる疾走」(集英社)
「猛烈社員を排す」(文藝春秋)
「零からの栄光」(毎日新聞社)「男たちの経営」(大泉書店)

1971年
(44歳)

1月「寒燈」を「毎日新聞」に連載。

「鮮やかな男」(ベストセラーズ)
「役員室午後三時」(新潮社)

1972年
(45歳)

3月から4月にかけて、アメリカ横断バス旅行。ソルトレーク、ニューヨークなどを取材。12月、皇太子来賓問題から日本ペンクラブを退会。

「うまい話あり」
「雄気堂々」上下二冊(新潮社)「寒燈」改題

1973年
(46歳)

8月、アメリカヘ家族旅行。グランドキャニオンを再訪。10月から11月にかけてアメリカで講演、スイスヘ取材旅行、12月には対談のため再びアメリカヘ旅行。その後、中南米にも赴く。

1974年
(47歳)

1月から2月に東南アジアへ旅行。

「落日燃ゆ」(新潮社)

1975年
(48歳)

1月、『落日燃ゆ』が第28回毎日出版文化賞、第9回吉川英治文学賞を受賞。8月、ケニア、タンザニアへ家族旅行。10月、海外講演旅行でアメリカへ。ニューヨークなど4都市を訪問。

「官僚たちの夏」(新潮社)

写真提供:文化のみち二葉館

1976年
(49歳)

この年と翌年の「オール読物」新人賞先選考委員をつとめる。

「毎日が日曜日」(新潮社)
「プロフェッショナルの条件 ーアメリカ対談紀行ー」(講談社)
「繁栄とは人間にとって何か ーアメリカ細密旅行一」(毎日新聞社)

1977年
(50歳)

「打出小槌町一番地」(新潮社)
「生命の歌」(光文社)

1978年
(51歳)

1月、NHK大河ドラマの原作として『黄金の日日』を書き下ろし刊行。
5月、直木賞選考委員となる。5月から6月、日本作家代表団の一員として井上靖らと中国を訪問。

「黄金の日日」「素直な戦士たち」(新潮社)
「歴史にみる実力者の条件 一対談・人とその時代一」(講談社)

写真提供:文藝春秋

1979年
(52歳)

2月、東南アジアに講演旅行。夏、北海道へ2回の取材旅行。

1980年
(53歳)

1月、『城山三郎全集』新潮社 全14巻(翌年3月完結)の第一巻として『男子の本懐』を刊行。7月、ヨーロッパ、アメリカヘと対談のため旅行。8月末ウィーンヘ講演旅行。11月、風邪をこじらせて急性肺炎になる。

「男子の本懐」『城山三郎全集』第一巻(新潮社)

1981年
(54歳)

10月、ネパールに取材旅行。2月、「冬の派閥」連載開始。
11月、茅ヶ崎駅前マンションに仕事場を設ける。

「男たちの好日」(日本経済新聞社)「わたしの情報日記」(集英社)
「城山三郎全集・全十四巻」完結( 新潮社)

1982年
(55歳)

3月、NHK放送文化賞を受賞。この年から新田次郎文学賞、吉川英治文学賞、講談社ノンフィクション賞の選考委員をつとめる。

「冬の派閥」「勇者は語らず」(新潮社)
「外食王の飢え」(講談社)

1983年
(56歳)

3月、アメリカに取材旅行。6月、再びアメリカに取材旅行。8月、直木賞選考委員を辞任。同月、東南アジアヘ講演旅行。

1984年
(57歳)

5月、松本清張、井上ひさしとロンドン、アムステルダムで講演。その後、チロルなどで静養。

対談集「軽やかなヒーローたち」(講談社)
「本田宗一郎との100時間」(講談社)

写真提供:文化のみち二葉館

1985年
(58歳)

3月、対外広報調査団(平岩外四団長)に加わり、ワシントン、ニューヨークなどを訪問。9月、ニューヨーク、ボストンヘ取材旅行。

「打たれ強く生きる」(日本経済新聞社)

1986年
(59歳)

6月、父政之亟(83歳)死去。10月、ニューヨークに取材旅行。

「秀吉と武吉」(朝日新聞社)
聞き書き「静かなタフネス10の人生」(文藝春秋) 

老年期〜没後

1987年
(60歳)

1月、ニュージーランドヘ取材旅行。9月、ドイツ旅行。

「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」(新潮社)
キングスレイ・ウォード著:翻訳

1988年
(61歳)

7月、アメリカヘ旅行。8月、中国へ取材旅行。
10月、マレーシアヘ取材旅行。

「粗にして野だが卑ではない」(文藝春秋)「友情 力あり」(講談社)

1989年
(62歳)

1月、政府賢人会議のメンバーにとの依頼を断る。
2月、オーストラリアのパースからハワイ島へと取材旅行。
6月、カナディアン・ロッキーを再訪。

「湘南」(文藝春秋)
「人生余熱あり」(光文社)

1990年
(63歳)

1月、「文藝春秋」に『賢人たちの世』を連載。11月刊行。3月、ハワイへ講演旅行。9月、ベニス、ダブリンなどへ取材旅行。

写真提供:神奈川近代文学館

1991年
(64歳)

「男の生き方四〇選」(文藝春秋)

1992年
(65歳)

2月、「本田宗一郎は泣いている」が文藝春秋読者賞を受賞。『ビッグボーイの生涯』を「現代」に連載。3月、紫綬褒章受勲の打診があるが辞退。春、茅ヶ崎の自宅を新築。居住部分は別に建て、仕事場はマンションに移した。

詩集「支店長の曲り角」(講談社)

1993年
(66歳)

「わしの眼は十年先が見える」を「小説新潮」に連載。

「ビッグボーイの生涯」(講談社)

1994年
(67歳)

山田雄三教授との「二人ゼミナール」を始める。

「わしの眼は十年先が見える」(飛鳥新社)

1995年
(68歳)

1月、クアラルンプール、シンガポールなどへ講演旅行。

「もう、きみには頼まない」
(毎日新聞社)

写真提供:文化のみち二葉館

1996年
(69歳)

12月、第44回菊池寛賞受賞。〈伝記文学の新しい領域を開拓した功績〉による。

「彼も人の子、ナポレオン」(講談社)
「花失せては面白からず」(角川書店)

1997年
(70歳)

6月、イタリアヘ取材旅行。

「運を天に任すなんて」(光文社)
「対談集 失われた志」(文藝春秋)

1999年
(72歳)

2月より「気張る男」を「文藝春秋」に連載。 9月、バンクーバー、ホノルルヘ取材旅行。

「この日、この空、この私」(朝日新聞社)

2000年
(73歳)

2月24日、妻・容子死去。9月、大連、ハルピンへ取材旅行。7月から11月にかけて名古屋市へ蔵書・資料を寄贈。以後、数度に分けて寄贈を行う。

「気張る男」(文芸春秋)

写真提供:文化のみち二葉館

2001年
(74歳)

4月、個人情報保護法案について小泉純一郎首相に速達を出す。

「嵐の中の生きがい」(角川春樹事務所)
「指揮官たちの特攻」(新潮社)

写真提供:文化のみち二葉館

2003年
(76歳)

1月、朝日賞を受賞。<経済小説の分野を確立、組織と人間を描いてきた業績>。2月、「私をボケと罵った自民党議員へ」が文藝春秋読者賞を受賞。5月、参院個人情報保護特別委員会の野党推薦参考人質疑に出席。

対談集「『気骨』について」(新潮社)

2004年
(77歳)

6月、「憲法行脚の会」を発足、呼びかけ人となる。

2005年
(78歳)

4月、ウィーン、インスブルックヘ取材旅行。これが最後の海外旅行となった。6月「くれとす会」解散。

「人生に二度読む本」(講談社)(共著)
「城山三郎 昭和の戦争文学」全六巻(角川書店)

2007年
(79歳)

2月、肺炎のため緊急入院。3月22日、間質性肺炎により死去。享年79。5月21日、東京プリンスホテルで「お別れの会」が行われた。

2009年

ダイヤモンド社主催の「ダイヤモンド経済小説大賞」を発展・改称し「城山三郎経済小説大賞」が設けられた。

2014年

角川文化振興財団の主催により「城山三郎賞」が創設された。